(株)Pon&Con企画、販促営業企画部の管轄事業として、海外事業KoLeが新設されました。当事業のヘッドキュレーター兼海外営業のSATOKOがご案内申し上げます。
当事業は、海外市場での可能性にチャレンジしてみたいけれど、費用面、貿易、外国語での商談・交渉などの実務面、人員面等でなかなか踏み切れない小規模事業者さん、個人事業主さん、作家さんのお役に立てればと設けた事業です。
当社のキュレーターがチョイスした商品を当社が海外へ売り込み、販売、輸出を行います。生産者さんは日本語のみ当社との取引のみで、ご自身で海外市場を目指すのにかかる時間的、人員的、輸送費等さまざまなコストを大幅に削減することが出来ます。
当事業については詳しくまとめたウェブページがございますので、よろしければそちらをご確認ください。
また、当事業をお役立ていただけそうな方をご存じでしたら、ぜひその方に当事業をご紹介いただけますと幸いです。
あなたの作っている四国のステキを海外へ!
出品者募集
KoLeは、生産パートナーさんの商品の海外営業、輸出のみならず、パートナーさんの商品をどうすれば、より海外市場に受け入れられやすくなるかを考え、PRツール(記事、画像、動画、SNS投稿)を作成したり、商品の仕様変更のご提案などを行う役割を担います。「一緒に買ってもらいやすい商品を育てていく」それが、KoLeのパートナーシップです。
生産パートナーさんの紹介例
KoLeの生産パートナーさんになっていただくと、海外向けのKoLeウェブサイトに「作家さん紹介ページ」「登録商品ページ」を英語で作成いたします。その際に使われる画像やSNS上などでのPR動画、PR方針なども、商品や作家さんを海外からどう見てほしいかを考えて作成していきます。
当事業、私、SATOKOにとっては「ただの仕事以上」の存在です。そこで、この記事は当サイトブログの「キュレーターノート」というキュレーターのお仕事などについて綴るカテゴリーに書くことにしました。当事業を始めるに至った経緯や想いをここに残しておこうと思ったのです。お時間が許すようでしたら、ご興味がおありでしたら、お付き合いください。
KoLeにたどり着くまで約30年
・ぼんやりとした夢が目の前で実体化する瞬間
あなたは、こんな体験をしたことがありますか?なんとなく思い描いていたことが自分の意思とは関係なく目の前でどんどん形をなしていく瞬間。今まで自分の辿ってきた人生の中で全く関係ないと思っていたことが、突然、磁石のついたパズルピースのように勝手にくっついていき目の前に1つの画として現れる。そんな瞬間です。今回の事業を準備するきっかけとなったのは、まさにそんな瞬間でした。私はあの日のことを「ビッグバン」と呼んでいます。
-ビッグバン!大きな疑問と答えを見つけた小規模事業者サポート
ある小規模事業者さんから海外展示会への出展を検討しているとご相談を受けました。この事業者さんの海外市場へチャレンジしてみたいという意気込みは本物で、前職は製造業の海外営業だった私も国内で開催される海外バイヤーとの商談会などでお手伝いをさせていただいていました。
この商談会の準備でふと感じたのです。英語をつかえて前職で海外営業としてトレーニングを受け実務を行っていた私には「なんでもないこと」が、その経験のない事業者さんにとっては、小さからぬ負担になっていると。
海外展示会への出展は、実際に物が輸出されます。バイヤーとの商談とは全く違った手続きや準備などが必要です。その事業者さんから私が現地へ出向くよう依頼を受けました。
海外展示会現地で事業者さんの海外営業として商品のアテンドを行う中で、以前感じた疑問はどんどん大きくなっていきました。
外国語も今から。貿易実務も0からの習得。海外の商習慣を1から失敗を重ねて覚えていかなくてはならない。商習慣の違う相手とフェアな契約を交わせる交渉術も今から。そして全てが場数を踏んでナンボのスキル。これらをただでさえ人手の少ない小規模事業者さんや個人事業主さんが今から取り組むとなると…時間的コストが物凄くかかってしまうのではないか?海外展示会へ1回出展するのにも人を1年間1人雇えるくらいの費用がかかることもある…。貿易実務が出来るようになっても、海外への売り込みやPRが出来るというのはまた別のスキルと業務時間が必要になってくる…。これは…お世話になっている事業者さんにとって本当に良い投資で本当に最善の策なのだろうか…。
私としても、依頼をいただいた事業者さんの従業員と言う形で出向くので、自由に機転を利かせられる幅がとても狭く普段なら背負えるリスクを背負えないのです。リスクを背負えないということは攻める範囲も狭まります。
その海外展示会で商談を1つまとめ、帰国する前日までには、KoLeの原型となる構想が芽生えていました。当社の代表取締役にも取り組むことへの了承を得ていました。
「商品を1つ売るという同じ目標を持っているチャンネルがそれぞれにそれぞれより得意なことに専念した方が効率が良いのではないか?」という構想です。
商品を作る生産者さんは、当社よりも海外小売店さんよりも製品を作ることが得意です。海外小売店は自分の店の市場や客層、好みを生産者さんよりも当社よりも熟知しています。そして当社の販促営業企画部は、生産者さんよりも海外経験、実務経験があり、海外小売店さんよりも日本の生産者さんを見つけやすく、日本時間で日本語で交渉を行うことができ、生産者さんや(おそらく)海外小売店さんよりも「売るためのアイテム(画像/記事/動画/企画)」を作り出すことができます。
帰国する飛行機の中で、今まで自分が歩んできた「一見関係のないこと」全てが繋がったことに衝撃を受けたのです。KoLeに至るまでの一番最初のパズルのピースはなんだろう…と考えてみたら…なんと…その最初きっかけは約30年も前にあったのです…。
-今まで歩んできた道が必然だったとは…
自分で自分の40年近い人生を振り返っても、一貫性がないように思える道を通ってきました。きっと他の人から見たら本当に行き当たりばったりの人生にしか見えていないと思うのです。それが、まさかここに来て、全部が繋がるなんて誰が予測したでしょう?
自分の一番古い記憶は、居間でお絵かきをしていたり、NHKの工作番組に夢中になっていたこと。紙とクレヨンやエンピツなどの描くものがあれば、最高に幸せだったように思います。アルバムをめくると…遊びに連れてきてもらっているのに、外で絵を描いている写真に思わず苦笑してしまいました。
そんな絵さえ描いていればシアワセだった子供時代に、後に今につながる最初のきっかけが訪れます。
9歳くらいだったある日、学校から帰ると母が玄関で仁王立ちし、私を待ち構えていました。何かがバレてここで怒りの稲妻をくらうのだ!!と覚悟をした瞬間、母は思いがけないことを私に尋ねます。
「あんた、英語が話せたらかっこええと思わんのな?」
(念のため方言訳:あなた、英語が話せたらカッコいいと思わない?)
絶対に叱られると思っていた私は拍子抜けし、「かっこええと思う」と返すのが精いっぱいでした。その数日後には英会話教室の営業パーソンが我が家に来て、レッスンのデモンストレーションをしていました。またそこから数日後、私は毎週木曜日に英会話教室に通うことになっていたのです。
ある程度英語が話せるようになった私は、県内の美術科のある高校へ進学し、1年生の夏に念願の海外への切符を手にすることになるのです。
オーストラリアの高校生に丸亀城を紹介
香川県にある銀行「香川銀行」は、そこが持つ財団の事業として毎年数人の高校生をオーストラリアのタスマニア島へ派遣しています。書類選考の後に、英語での面接を経て、タスマニアへ行かせてもらえる高校生が決まります。
この財団の海外派遣事業は、ただ2週間遊んで暮らせるわけではなく、実際にホストファミリーの子供が通う高校に通い、香川県や日本についてのプレゼンを現地の高校生にしなくてはなりません。
丸亀市生まれ、丸亀市育ちの私は迷うことなく「丸亀城」をプレゼン課題に選択。戦争で焼け落ちることなく現存している木造天守閣は12城しかありません。そのうちの1つが、丸亀人の誇り、丸亀城なのです。この準備をしている時、自分の知らない自分の故郷のことについて調べ、それを“「日本文化」という基盤のない人へ外国語で伝える”という作業の面白さに気づきます。
人間、驕ると怪我しかしませんね…。オーストラリアへの派遣が決まった高校1年生の私は、自分の言語力を過信していました。せっかく行かせてもらえたオーストラリアでの2週間、みんなは辞書を片手に行動したのに対し、私は辞書を持たず行動しました。そして、思ったほど自分が英語を話せないという現実を突き付けられたのです。挫折とまでは言いませんが、このオーストラリア交換留学が成功だとは思えませんでした。
自分の驕りが仇となった恥ずかしさと、悔しさ、香川県にこのままいても今以上のレベルには上がれないという気持ちから次の目標を得ます。高校卒業後、アイルランド共和国(欧州:英語圏)へ留学する!
-文化差を超えて共に英語で働くことを覚えた5年間
アイルランドの首都ダブリン市で5年間生活。渡愛してすぐ、法改正があり、外国人留学生もアルバイトが認められるようになりました。それを機に店先に出ていた店員募集の張り紙を見て飛び込んだのが、アイルランド人の経営する日本食レストラン。このお店が超人気店だということに気づくのは働き始めてしばらくしてからでした(苦笑)。
従業員の国籍は様々で、私のように英語を母語としないスタッフも沢山働いていました。お互い母語ではない言語でのコミュニケーション、仕事。お客様も、英語を母語とするお客様ばかりではなく、観光でアイルランドを訪れた外国の方もいらっしゃいます。
英語での接客、異文化の人々と目標を共にし働き、問題を解決していく。仕事が出来れば、年齢国籍関係なく仲間が認めてくれる。サービスの良し悪しもお客様が「チップ」という形、私の担当するテーブルを希望してくださるという形で評価してくださる。そんな環境が私に初めて自信をつけさせてくれたように思います。
楽しいことも英語、悲しいことも、争いごとも、嬉しいことも英語。そんな5年間の間に、アメリカ人の夫と1人の娘に恵まれることにもなりました。
-外に出なければ気づかなかった故郷のユニークさ
家族で日本に帰ってきてしばらくは、5年もどっぷりEUスタンダードとアイルランド文化な生活に自分が浸かっていたことを痛感していました。自分の故郷でカルチャーショックを受ける日々。生まれて初めて故郷を客観視できた数ヶ月です。
アメリカ人の夫と香川県での生活が始まり、アイルランド時代の友人が遊びに来るようになって「どうやら、私が当たり前だと思っていたものは珍しいらしい」と感じるようになりました。
そのあたりから、ぼんやりと、世界に四国を知ってもらいたい、2回も日本に遊びにくるのなら、その2回目を四国にしてほしいと思うようになり、「四国と海外をつなぐような仕事が将来出来たら最高だなぁ」とぼんやり思い始めたのです。
-前職での経験で得た気づき
帰国後、様々な職種を経験したのちに、地元の製造業で海外営業の職を得ます。お客様は北米、欧州、オセアニア、アジアと世界中にいらっしゃり、製造も東南アジアなどで行っている会社でした。
そこで私は主に納期担当でした。工場へ輸入される材料のスケジュールから、工場から輸出される商品のスケジュールを出来るだけ納期内に収めるために、各方面と連絡を取り合い調整をする仕事です。
コミュニケーションはメールで言語は英語です。
物理的に無理なことは無理だとクライアント様には伝えねばならないし、工場が材料が入ってこないから作れないと言えば、材料自体の入荷を早めるために方々に連絡を入れて調整しなくてはならない。こうやって書いて、面白みが伝わらないかもしれませんが、実際は、ほんっとうに面白いやりがいのあるお仕事でした。
この時、学んだこと、経験が私がぼんやり考えていた「四国と海外をつなぐ仕事」を可能にする大きなピースとなりました。
-好きなことを仕事にする転機
前職での仕事は大変やりがいもあり面白いものでしたが、「自分が創ったものではない」ことへの違和感が自分の中で蓄積されていったのも事実でした。その違和感が前職での仕事へのやりがいや面白みを超えそうになったころ、今の会社創立の話をいただきました。
ある程度自分の裁量で仕事を進めていける環境で、イラストや名刺、チラシなどのデザイン、商業施設の季節的な飾り、インテリアデザインなどを手掛けられる環境を得ました。
販促営業企画部(旧:クリエイティブ部)の主なクライアント様は、小規模事業者さん、個人事業主さんです。「クライアント様の商品やサービスが1つでも売れるには何を当社として出来るか…」を考えご提案していくには、お客様のお仕事について学ばせていただくことが必要不可欠です。
※販促営業企画部で出来ること例はコチラをご覧ください。
その中で、ついに夢見た仕事を始める最後の要素が揃います。「何としてでも海外の人に使ってもらいたい商品」を作っている事業者さんとの出会い。そこから、ビッグバンの日まではあっという間でした。
-一貫性がないと感じられた職種で得た経験が全て必要になった
国内外で飲食店の接客業、個人事業主として試みた講師業、生命保険の新規営業、製造業での海外ルート営業と納期管理、現職でのデザイナーとしての仕事。どれもこうして羅列すると全く一貫性がありません。しかし、それぞれの職で行う業務や得られるスキルを一つひとつ羅列するとなかなかの数になります。記事が長くなるので例は挙げませんが、今まで通ってきた道のどれ1つ欠けても、今回の事業を組み立てることは出来なかったことに気づきます。
-何よりも欠かせなかったものは「ご縁」
今まで通って来た道を通り「海外に出したいと心から思える商品を作っている」事業者さんに出会わなければ、当事業はあり得ませんでした。どの職場についても、仕事に対する姿勢に尊敬できる人々に必ず出会え、私の仕事人人生において大切なことを多く学ばせてくださいました。
もっと遡ると、東かがわ市で出会い、後に丸亀市で就職先をみつける父と結婚し、9歳のお絵かきと工作しか能のない娘を「英語話せたらかっこええやろ?」と当時マイナーだった習い事「英会話」に通わせる母の下に生まれていなければ、私は私ではないわけです。父が丸亀市で職を得なければ、猪熊源一郎の郷と城の街 丸亀市、アートと工芸が隣り合わせにあるのが当たり前の香川県に生まれ育つこともなかったのです。
-若いころ海外に出て思い知った自分の痛恨のミスと後悔からの想い
高校を卒業するまでは、「海外に出る」ことが第一の目標で、その準備ばかりに明け暮れていました。結果、西洋文化や英語には強くなったのに、自国の伝統文化に関しては疎くなっていました。書道を習わせてはもらったものの…身にはならず…。海外へ出て、お茶かお花、武術、せめて着物は自分で着れるようになっていれば…と思うことが多々ありました。
ヨーロッパで暮らし、アメリカ人の義理の家族を得て、故郷へ帰ってきて初めて「美しい」「素晴らしい」と思えるようになった自国の文化と故郷。
ここから先は、ここまでに培った国際感覚や経験を活かして、やっと見つけた死ぬまでやり続けたいこと「四国(こきょう)を世界へ」出すこの仕事を育てて行こうと思います。
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